事実は「行動させられている」カラダ

程度の問題


「範囲の観かた」で我々は動かされている?


家族の為に

会社の為に
地域社会の為に

日本の為に

世界の為に

宇宙の為に



自分の為に、というのも一側面

 

 

【それ】


のため  ?

 

 

「為」じゃない

 

 

「そう」なのだ

 

 

そうだったから、そうなんだ

 

 

「だからする」  みたいなね。



行動は後から

 

正確には0.00000000000…後に動く

 

ほぼ同時に見えるけどね

 

 

 

だから任せるしかない

 

 

全般の信頼を置いて任す。

 

 

滲み出たモノは感情(または感傷)に浸る材料となる。

 

 

空間と空間がうねり合い

 

もの凄い圧力で滲み出された「それ」は


想いをも凌駕する『意』に象る。




難しく言ってもしゃ~ない

 

 

佇んでいても、氣がつけば動いてる。

 

 

 

以上、

ジブンを観る

ジブンを観るしかないのだ。

 

 

外を見る

知識・情報・技術・方法論・メソッド・講演会・セミナー



もちろん面白いし楽しい


自分の経験上知りえなかったことや体験できなかったことを聞くのは、外からの刺激という意味では良いことだ。

 

 

何もない(無)から(有)を造り出す上で、そういったモノを核にして始めるのは着手しやすい。

 

 

ただ、「ソレ」はいつも流動的だ。

 

 

固定しようとしても、次の瞬間には変化をし始める。



それに違和感を感じたまま進めるか、それを感じさせないよう鈍感にして進んでいくか


これはその人の裁量でやっていくしかない


お金が入ってきたり立場的に優位性を持つこともあるだろう。

(いっておくが、それは悪い事ではなく必要なことだ)

 

 

 

たえず変化しているのに、外側で形作ろうとしても無理。



型枠も不要だ

 

 

あの人はわかってる、この人はわかってない



これも要らない

 

 

そんなものはどうでもいい

 

 

ただただ観察する

 


水面をいくら波立たせても、深海の奥は静か


 

大きなうねり、ゆらぎはある

 

 

そこを観察する。



氣づくことがでてくる



それを推敲する

 

 

またフッと現れる

 

 

その繰り返し

 

 

頭が考えだすこともあるかもしれない

 

 

それを宥(なだ)め、落ち着かせる。

 

 

その一歩先は幸せなんだ


さらにその先も幸せなんだ


さらに奥、さらに先


結局、観ているのはジブン



それを経て感じたことは納得ができる。


以上

 

全自動思考

勝手に働き出すワタシの『思考』

 

全自動に機械的に巧妙に働いていた。

 

昨日、まほうのトリセツというグループセッションを受けた。

 

案内人の坂本さんによる解説で、「なるほど」とハラで納得した。

 

 

そのハラで納得したコトを思考が理解しようとし始める。

 

「余計なことをするな」

 

と、たしなめてみる。

 


今まで、進もうとしていた自分にブレーキをかけていた。

 

 

口先だけのおべんちゃらは通用しなかった



ハラ底にあるマグマのようなモノを抑えていた。

 

 

なにかトンデモナイことが起き、全てがダメになってしまうのではないか?


そんなストーリーを想い描き、当たらず触らず綱渡りを渡るような思いで、そこから落ちないように、ただバランスを取り続けていた。

 

 

自己防衛?

臆病者?

 

ジブンを守りたかったのだろう

 

しかし、そこに留まっていれば澱みくすみ濁っていくだろう。

 

あたらしい水を入れれば薄まるかもしれない

 

所詮、薄めただけだ。

 

 

いつも流れ動いている

 

勝手に枠を作り制限していたのか

 

 

ワタシこそが根源

 

どうしていく?

 

それはハラに聞いてくれ

天の意のままに

山本です。

岡山在住の施術者です。

 

アメブロとは違う、妄想と現実の話を書いていきます。




「お金がほしい」

と言っても、それは父や母に叱られたくないから気になるのかもしれません。

 

「早く元気になりたい」

それは仲間はずれや皆から取り残されるのが怖いからなのかもしれません。

 

結局、「怒られるのが嫌だから」「嫌われるのが嫌だから」ということが動機になっていないだろうか?


本当に好きなことは何だろう?

本当にやりたいことは何だろう?

 

自ら探しても、何かしらの理由を見つけ、それを当てはめて正当化しようとする。


ならば、自ら模索することを放棄し

 

『天の意のまま』に任せてみようか?


では、天の意とは?

 

 

何もしなくても現れるのか?

 

何かをしなくてはいけないのか?

 

 

何かを表現し続ける必要があるのか?

 

 

行動をし続ける?

 

言葉を発し続ける?

 

成果を出し続ける?

 

 

それでは同じことではないのか?

 

 

まさに我の都合でこれらを考させられているように思う

 

 

我が薄くなり、消滅するまでやってみるのも一興

 

 

呼吸し続けるのも面白いかもしれない。

 

 

朝起きて、洗顔し排便を済ませ、外の芝生を裸足で立ち

 

ただただ息を吐いてみた

 

力を抜けば勝手に吸う

 

朝とはいえ、夏の日差しは暑かった。


答えもなければ落ちもない

 

 

弥栄