沈黙よ、その本当の静かさはどこか

わたしの日常生活は絶えず『音』が流れている。

 

動画サイト、ラジオなど

 

それは、寂しさを紛らわすこともあるが

 

『外』に触れていたいという想いがあるからだ。

 

『内』に戻ると様々な情報が湧いてくる。

 

今もこうして記事を書いている時は、何も音は流れていない。

 

頭の中のお喋りというより

 

ワタシの周りにあるデーターを現すためにキーボードを叩いている。





いや

 

それは少し違う

 

嘘をついている

 

放っておくと、勝手に頭の中でお喋りが始まっている。

 

何かを紛わせるために、内部からも外部からも『音』を出している。

 

一体何を紛わせたいのだろうか?


自分の精神的な想いなのか?

 

 

正直に告白すると

 

私は心の底から喜んだり悲しんだりしたことが、あまりない

 

 

どこか他人事なのだ。

 

 

悲しんでいても

 

「ああ、今悲しんでいるんだな」

 

と、冷静に感じている自分がいる。

 

だから、日常で大袈裟に驚いたり喜んだりすることをわざと表現することもある。

 

それもまた、冷静にみつめている自分がいるのだ。

 

この『自分』は一体誰なのか?

 

もちろんそれも私ではあるのだろうが。

 

 

他人に答えを求めても教えてくれないことも分かっている。

 

本やセミナーや教材に求めても、金と時間を失うだけだ。

 

ただ、心の安静を保つ手段として行ってきたにすぎない。

 

肉体を持っている以上、お金も必要だ。

 

休ませたり、ぐうたらする時間と環境もいる。

 

それは、安心の中で静かさを体感できるからだ。

 

 

ああ

 

何か分かった氣がする。

 

私は不安だったのだ。

 

不安を紛わす為に『音』を流していたのだ。

 

安心が故の沈黙


これを欲していたんだ。

 

無音という騒音に悩まされていただけなのか

 

意味不明かもしれないが、無音というのは自分の中の音が露わになるものだ。

 

ということは、私は自分の中の音が露わになることを避けていたことなる。

 

「自分の声を聞く」

 

というキャッチフレーズを目にしたことがあるが、

 

それは、沈黙・無音・静寂の中で聴くことができる。

 

外部で幾ら騒がしくても

 

内部で沈黙・無音・静寂であれば良いのだ。

 

パチンコ店で機械音がけたたましく流れていても、目の前のパチンコ台に集中できる精神状態に共感できる。

 

 

それくらい、内部の音のほうが騒がしかったのだ。

 

これを解消するには

 

どんどん表す

 

どんどん表す

 

薄くなるまで現す

 

現れなくなるまで現す。

 

これポエムではない

 

事実を書き示している。

 

口悪く罵ることも、ココではできる。

 

良い場所だ

 

言いたいことを言える環境があることは救いになる。

 

出す

 

とにかく出す。

 

出し切ったと思っても、また湧き出てくる

 

それでも出す

 

その行為に意味はない。

 

それに私の価値は含まれているのかは分からない。

 

だから人は表現する。

 

正しい間違いはここではどうでも良い。

 

ソレ自体に価値付け可能なのだ。

 

まだ言い足りないが言葉のボキャブラリーが乏しい

 

方法はない

 

各自で見つける他ない

 

健闘を祈る

 

2018.3.14